2019年07月21日

テトスへの手紙

テトスへの手紙

「反対者に口実を与えない宣教者の品性的健全性」 

テトスへの手紙は、あきらかにテモテへの第一の手紙と重なり合っています。

テモテへの第一の手紙が、健全な教えに基づく配慮がいかなるものかを実例的に詳しく叙述する「ゆとり」があるのに対して、テトスへの手紙では、反対者に口実を与えることの致命性に注意を向ける「緊急性」が印象的です。

現代的表現をもっていえば、福音宣教にとり、緊急な課題は何よりもまず「福音と世界との出会いを妨げる条件の除去」だというわけです。

教会の長老の条件が、責められる点がなく、不品行のうわさを立てられず、健全な教えによって人をさとしうることとされるのは、「反対者の誤りを指摘することができるため」であり(テトスへの手紙1:6ー9)、品性的健全性が教会員全体に徹底すれば、その結果は、「反対者もーー悪口も言えなくなり、自ら恥じいる」ことになるからであるという(テトスへの手紙2:1ー10)。

信仰者に、品性的健全性が欠けているということは、不信仰の証拠であり、知性も、良心も汚れている証拠です。

「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」(テトスへの手紙1:15ー16)。

教会も選民と同じように失格者となりかねないのです。

教会は、十字架のあがないにより、「不法からあがない出され」、聖別された民の群れです(テトスへの手紙2:11ー14)。

だが、選民としての健全な、良いわざは、自己を正当化するような、人の義に基づくものではなく、「神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされ」た者のみが結ぶ実としてのそれです(テトスへの手紙3:4以下)。




【参考】
キリスト者は、二つの歴史に生きています。
一つは、現実世界の歴史・「一般史」。
もう一つは、その現実を神にあって解釈した「救拯史」。
神にあっての解釈が出来なくなれば、信仰の破船です。



posted by 道川勇雄 at 16:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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