2019年07月21日

ピレモンへの手紙

ピレモンへの手紙

「信仰的飛躍を促す賭けとして活かさるべき主に在る交わり」 

先立つテストへの手紙は、信仰の「健全性」に力説点をおいていましたが、ピレモンへの手紙は、むしろ信仰の「飛躍性」を強調しています。

テトスへの手紙は、健全性としての良きわざに注目させていますが、ピレモンへの手紙は、模範的な良いわざの人であるピレモンに、むしろ、良いわざの人からの脱皮を促すかのようです。

またテモテへの手紙と比べると、そこでは、キリスト者の「孤立に耐える強さ」が強調されていたのに対し、ピレモンへの手紙では、「主に在る交わりが、相互の信仰的飛躍にとっていかに不可欠」であるかを証明するかのようです。

@主に在る、人間関係の受け取り直し(ピレモンへの手紙1-13)

聖書中最も短いこの書の、三分の一が、ピレモンの信仰と愛に対する感謝に費されています(ピレモンへの手紙1-7)。

だが、ピレモンへの手紙で訴えたいことは、他にあります。

「こういうわけで、わたし(パウロ)は、キリストにあってあなたのなすべき事を、きわめて卒直に指示してもよいと思うが、むしろ愛のゆえにお願いする」
という。

それは、ピレモンの許からの逃亡奴隷オネシモを、再び受け容れてほしいという囚人パウロからの懇願です。

もっとも、以前のオネシモはたしかに「無益な者」でした。

しかし現在のオネシモは「有益な者」なのだという。

人間は、人格として変化する可能性をもっています。

その意味で人間は日々に刮目してみらるべきであるということを、頭では理解できますが、これほど至難な実践はありません。

人は人を枠の中にはめてしまいやすく、ひとたび品定めした以上は、容易にその評価を変えようとはしません。

自信のあるエリートにおいては、なおさらです。

しかし、ひとたび、教会にのみ期待されており、許されている交わりとしての人間関係に目を転じるがよい。
それは「主に在る」交わりであろう。
「主に在る交わり」と、世間一般の交わり(人間関係)とが同じだというのか。
もし違うとするなら〜〜。
主を中心とし、首とする交わりは、主に在る、人間関係の「受け取り直し」ではないのか。 

神信仰が人間中心の「一般史」からの「神中心的受け取り直し」であるように。

イエスは、生まれつきの人間の直接的、血族的結合(家族関係)を、
「神中心的に受け取り直す」
ことを訴えて、
「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マタイ12:50、ヨハネ15:14他)
と言われました。

旧約聖書にもこれに対して深い示唆を与える書があります。

エステル書では、か弱い女性にすぎないエステルは、その民族の危機に当たって彼女の与えられていたペルシャ王妃としての「偶然的」位置を、民族救済のための「必然的」位置として、受け取り直す決断を迫られました(エステル書4章)。

そのことを通して、人は、神による救いの歴史においても、摂理は「ある」ものではなく、人の決断と冒険を媒介として、摂理は摂理「する」ことを学ばされます。

人間関係の「受け取り直し」が、いかに至難な実践であるかを知れば知るほど、このような訴えをしてくれる他者の必要を覚えずにはいられません。

エステルをはげましたのは、否、エステルに訴えたのは、モルデカイでした。

A主に在る友としての飛躍への賭け(ピレモンへの手紙14以下)

パウロは、良いことを確信したからこそ、ピレモンに手紙をかいています。

しかし、彼は「指示」(強制)する道をとりません。

人格的な交わりにおいて貴重なのは、「自発性」だからです。

他者の自発性に訴える道とは、そうなると、もはや「賭け」しかないのです。

「彼(オネシモ)がしばらくの間あなた(ピレモン)から離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めておくためであったかも知れないしかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟として」
という。

パウロが願うような摂理は、ピレモンの決断によって初めて「摂理する」としかいえません。

ピレモンとしては、それがいかに自然的人情からの脱皮をーーしたがって、並々ならぬ自己否定を意味するか分からない。

そうおもうと、このパウロの懇願は、相手によって拒絶されるかもしれない。
それだからこそ、パウロとしては、「主に在って・賭ける」ことなのです。

主に在る交わりも、慰め合うことのみのものに堕する時、ヒューマニズムを超えられないものになってしまいます。

主に在る交わりは、つねに首である主からの挑戦に応えることを通しての、信仰的脱皮を相互に促すものであることがのぞましいとの訴えとしてひびきます。

この世の連帯感はしばしば利害関係に基づき、より低い人間の動機に訴えます。

だがキリストを首とする体の連帯感には、「より高い動機」に訴えさせる場があります。

そこには「キリストにあって」という言葉で示される垂直関係が原動力となっているからです。

パウロはいう。
「しかし、わたしは、あなたの承諾なしには何もしたくない、あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている。
彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めておくためであったかも知れない。
しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。とりわけ、わたしにとってそうであるが、ましてあなたにとっては、肉においても、主にあっても、それ以上であろう」と(ピレモンへの手紙14節以下)。


posted by 道川勇雄 at 16:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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