2019年07月21日

ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙

「大祭司キリストの燔祭的仲保が触発する負債感による教会の献身」 

イエスは自らを律法・預言者の「成就者」として告示されました(マタイ5:17、下記参照)。

【引用】
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。」(マタイによる福音書 5:17)


教会は、十字架に御自身を燔祭として献げ、世の罪をとりなしたもうたキリストを首として仰いでいます。

このキリストこそは、「祭司の国・聖き民」として選ばれながら、失格者となった選民・イスラエルに代わって、「真の祭司の国・真の大祭司」としての使命を果たしたイエスです。

ヘブル人への手紙は、この大祭司において、初めて旧約聖書の祭祇律法がさし示していたところが完全に具現されたとみています。

@大祭司イエスの苦難における人間との連帯(ヘブル人への手紙1-6章)

神の独り子イエスは、万物の相続者であり、神の本質そのものとしての「至高者」です(ヘブル人への手紙1章)。

それなのに、独り子イエスは、
「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」(ヘブル人への手紙2:7-9)。

それは、万物をみ子に服従させられたのに、
「今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない」(ヘブル人への手紙2:8)
からです。

この不可解をとくかぎは何でしょうか。

それは他でもない、人間を、み子の栄光に与らしめるため、苦難において、「独り子を人間との連帯者」となしたもうたことです。

「万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光を導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。
実に、きよめるかた(イエス)も、きよめられる者たち(人間)も、皆ひとりのかた(父なる神)から出ている。
それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」(ヘブル人への手紙2:10-11)。

その独り子を、被造物にすぎない人間のために燔祭として、死の苦しみをあえて与えるとは、いったい何たることであろうか。

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」(詩篇8:4-6)
と問うた詩篇の詩人は、はるか後の出来事であるイエスのあがないの死を「先取していた」のです。

被造物である人間は、血と肉からなるから、イエスは自らも、この人間を奴隷状態から解放するため、血と肉をもつ人間として受肉され、連帯者となられました。

こうして、
「イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル人への手紙2:14以下)という。

選民イスラエルは、その不信仰とかたくなさの故に、荒野で四十年も神を試みました。

しかし彼らの時代とちがって、教会は、聖霊によって建てられ、聖霊によって先導されています。

聖霊は今、教会に向かって、
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、ーー神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル人への手紙3:7以下)
と語っています。

教会も不従順に陥るとしたら、救いとしての「安息」(永遠のいのち)からは閉め出されてしまいます。

教会に与えられているみ言葉(聖書)は、隠れた心の思いや志を鋭くあばく光です。

同時に教会の仰がせられている大祭司は、罪はなかったが、人として試錬を連帯的に味われたので、人間の弱さをおもいやることのできないような御方ではありません。

だからこそ発憤せよ。

並ぶ者のない大祭司イエスでありながら(ヘブル人への手紙5:5以下)、地上にあっては、「激しい叫びと涙とをもって、ーー従順を学ば」
れました。

それは、すでに「完全な者」が、「不完全な人間」と連帯し、
「彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源とな」られるためでした(ヘブル人への手紙5:7-10)。

教会は、このような「最高の特典」に与る者としてはすでに「成人」であるはずだ。
成人であったなら、
「善悪を見わける感覚を実際に働かせえている」はずなのに、初歩にとどまって、堅い食物ではなく乳を必要としているとは何となさけないことだろうか。

「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世(神の国)の力とを味わった者たちがそののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび侮改めにたち帰ることは不可能である」
と、それが「聖霊を汚す罪」にひとしいと言わんばかりの激しい口調です(ヘブル人への手紙6:4-6)。

より多く与えられた者からは、より多くを求められ、より多く光を与えられた者は、その光に準じて、より厳しく審かれる、ということです(ルカ12:48)。

A大祭司の燔祭的仲保によって触発される教会の負債感(ヘブル人への手紙7-10章)

旧アロン系の祭司制度に関しては、神は何ら誓いたまわなかったが、大祭司イエス、すなわちメルキゼデク系の新祭司に関しては、
「主は誓われたが、心を変えることをされなかった。
あなたこそは、永遠に祭司であるといわれた」(ヘブル人への手紙7:21)。

「このようにして、イエスは、更にすぐれた契約の保証者」
となられた故に、旧約聖書の反復性はこの大祭司の、
「永遠的一回性」のうちに廃棄止揚された(ヘブル人への手紙7:22-28、9章)。

アロン系の祭司らが奉仕したのは、
「天に在るものの型と影」
であったのに対し、メルキゼデク系に等しい大祭司イエスは、
「天に在る真の幕屋なる聖所」(ヘブル人への手紙8:1以下)です。

結論的に、大祭司イエスの「罪のあがない」が完全性を保証するのは、受肉したみ子の血が燔祭として献げられた出来事です。

それは、
「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。
あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。
その時、わたしは言った、
『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」(ヘブル人への手紙10:5以下)
というイエスの言葉においてあきらかです。

「ここで、初めに、
『あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭とを望まれず、好まれもしなかった』
とあり、次に、
『見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました』
とある。
すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。
この御旨に基づきただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことよって、わたしたちはきよめられたのである」(ヘブル人への手紙10:8以下)
と、要点がくり返して解説されています。

これまで選民は、燔祭や罪祭を献げましたが、心は別でした。

燔祭に関し、サムエルはサウルにいった、
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。
見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル記上15:22)
と。

十字架の死に至るまでのイエスとは、他でもなく、十字架の死に至るまで「従順」であったイエスです。

「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。
彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」
とは、
「見よ、御旨を行うためにまいりました」(ヘブル人への手紙5:7、10:7)
という、イエスの「従順」をさし示したものです。

しかし、このイエスの十字架への歩みにおいて示された「従順」こそ、旧約聖書の契約に対する新約聖書の契約の他に代えられない一事です。

「わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」
と言われた(エレミヤの預言)意図は、このイエスの十字架によって示された「従順」によって初めて実現されたからです(エレミヤ書31:33-34、エゼキエル書11:19、18:31、36:26他)。

【引用】
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、
『あなたは主を知りなさい』
とは言わない。
それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。
わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」(エレミヤ書 31:33-34)

「そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。」(エゼキエル書 11:19)

「あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。
イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。」(エゼキエル書 18:31)

「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。」(エゼキエル書 36:26)


つづいてヘブル人への手紙は、またもや、
「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル人への手紙10:26-31)
と、十字架の燔祭においてみ子の「従順」を聖霊によって、心に浸透させられた教会の「負債者」としての危急を告げています。

恵みに狎れることが、エリートや、特典に与る者の最大の致命傷であること(マラキ書)を想い出させるかのように、ヘブル人への手紙はつけ加えます。

「生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(ヘブル人への手紙10:31)と。

B未得を既得とした旧約の証人群からの挑戦(ヘブル人への手紙11-12章)

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」
といって、教会を、
「雲のように囲む」旧約の証人群を列挙してゆきます。

信仰の本質が、未得を既得として、「未だ」見ていない神の勝利を、あたかも今、ここで「既に」見ているかのように決断することである、という。

モーセも、「見えないかたを見ているようにして、忍びとおした」といい、多くの実例を列挙してのち、
「さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。
神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」(ヘブル人への手紙11:27、11:39以下)
と、再び選民に対比し、教会の賜物の絶対的優位性を示して、教会の発憤を挑発しています。

教会は、その首としての「信仰の導き手・信仰の完成者」であるイエスによって先導されています。

神の独り子イエスが、人間と苦難においての連帯者となられたというのに、人間は、血を流すほど罪に抵抗したことがない。
イエスの「患難を通して栄光へ」の道に与らしめるためにこそ、神は教会を「愛する子として訓練される。」

教会も、その超絶的な特権に与るために聖別されなければ、たやすく、
「一杯の食のために長子の権利を売ったエサウ」(ヘブル人への手紙12:14以下)
の道に陥る危険があると指摘します。

「より多く愛される者は、より厳しく審かれる」とは、教会に対する警告です。


posted by 道川勇雄 at 16:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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