2019年07月21日

ヤコブの手紙

ヤコブの手紙

「行為なき信仰の自己矛盾」 

ヤコブの手紙を読み進む者に、問題となるのは、聖書の主流をなすと思われるローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙の、「信仰義認の志向」に対抗する、ヤコブの手紙の「行為義認の志向」です。

好むと好まざるとに拘らず、聖書は、対立相剋するような個性的主張をもつ書を通して、「イエス・キリストは主なり」と告白しています。

したがって、相対立する両書(他の書の場合もふくめて)の他を捨てて一をとることも誤りですし、両書をして、その意図を主張させるとことなしに、平板的に妥協調和させることも、同様に、正典的即物的解釈としては邪道です。

ヤコブの手紙の意図を問うためには、相対立的なガラテヤ人への手紙と対照させることが、きわめて効果的です。

ガラテヤ人への手紙に劣らず、ヤコブの手紙にも、「首尾一貫性」が、その記述の特色です。

ガラテヤ人への手紙は、「福音自体の首尾一貫性」(信仰義認)であり、ヤコブの手紙は「信仰者自体の首尾一貫性」(行為義認)として、それぞれの主張です。

ガラテヤ人への手紙には、「妥協を見破る烈しさと鋭さ」があるのに対し、ヤコブの手紙では、「情念を洞察する鋭さ」があります。

聖書の中に、相対立的な書がふくまれていることは、いうまでもなく、各書簡の対立相剋をできる限り、徹底させる結果、その相剋に押し上げられることで、そこに生み出される創造的な論理をくみとるように、訓練されます。

【参考】
なお付け加えれば、聖書は、イエス・キリストの「証言の書」です。
「証言」という語は、法廷用語であり、法廷に証言者として立たされた人が、そこで問題となっている点について、自己が「知るところ、見たところ」を語ることですから、その証言者が、何人現われたとしても、その証言の「的(まと)」は全く同一であるはずです。

証言者が相互異なるのは、証言の「し方」の差異です。
その法廷で問題となっている「一点」について、証言者のある者は「右」といい、他の者は「左」といい、さらにある者は「白」といい、他の者は「黒」ということがあり得ます。

しかし「右」にせよ、「左」にせよ、「白」にせよ、「黒」にせよ、その「的(まと)」があるからこそそういわれるので、「的(まと)」がなければ、どちらともいわれることはありません。

したがって、どういわれようと、「それ」または「的(まと)」そのものにはなんら変わりがないのです。
証言者の証言は、それぞれ相異なりながら、「それ」(的・まと)について見聞きしたことを語っているのです。
見聞きしなければ証人として立つわけもないし、見聞しないで立つ者を聖書は「偽証者」とよんでいます。

逆にいえば多勢の証言者が、その証言の「し方」において異なれば異なるほど、その「的(まと)」の確かさがわかる訳です。
聖書中の諸書の相互差異または相克は、この「証言のし方」の差異であって、「的(まと)」そのものの差異ではないのです。


@行為による信仰の完成(ヤコブの手紙1-2章)

ヤコブの手紙は、焦点を、信仰者の人間としての首尾一貫性にしぼっています。

それは、この部分で、「二心(ふたごころ)の者」をいましめ、「自由の律法を一心に見つめること」として強調されています。

⑴忍従のない聴従の欺瞞(ヤコブの手紙1章)

この部分では、試錬の効用をのべ、
「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。
それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」
と言い、試錬を与える神の本質的一貫性をさすかのように、
「父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
父は、わたしたちを、いわば、被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さった」(ヤコブの手紙1:12-18)
という。

しかし、
「御言を行う人になりなさい。
おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである」(ヤコブの手紙1:22)
と言って、忍従のない聴従の自己欺瞞に注目させます。

また、
「もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信仰はむなしい」
と言って、行為の面まで徹底させられないような信仰は、欺瞞であり、空しいことを力説しています。

⑵自由の律法に矛盾する差別行為(ヤコブの手紙2:1-2:13)

律法の神髄は、
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(ヤコブの手紙2:8)
ということに尽きます。

これが、信仰者の服すべき「自由の律法」です。
これを貫くべきです。
故に、社会生活における「差別行為」は、
「自分を愛するように、隣り人を愛する」(ヤコブの手紙2:5以下)
「自由の律法」を犯すことであり、したがって、その律法の与え主のみ名を犯す行為です。

⑶アブラハムにおける行為義認(ヤコブの手紙2:14-26)

「信仰も、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」
という結論を証明するために、ここでは、選民の太祖、そして万民の信仰の父とされるアブラハムを引き合いに出し、
「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされたのだ」
といって、
「信仰による義認」への意識的抵抗のように、
「行為による義認」を強調します。

「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」
という念の入った強調を、人は、見過ごすことを許されないでしょう(ヤコブの手紙2:17、2:20以下、特に、2:24-24)。

A信仰を裏切る行為の克服(ヤコブの手紙3-5章)

あたかも、信仰義認一辺倒的考え方の甘さをつくかのように、
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである」(ヤコブの手紙3:2)
と言い、いかに、例外なく、人は、その行為において、信仰を裏切っているかを実例的に指摘しています。

⑴舌の統御の至難性(ヤコブの手紙3章)

「もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」

人格統御の定め手は、舌の制御ですが、
「ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない」(ヤコブの手紙3:2、3:8以下)
ではないかと、信仰をその行為で裏切らないといえる者の皆無であることを立証します。

⑵神の熱愛に応える、情欲の統御(ヤコブの手紙4章)

戦争や争いの根は、人間の情欲です(ヤコブの手紙4:1)。

これに悩まされない人間は皆無です。

つまり、これは悪魔の誘惑だから、これに立ち向かうには、神か悪魔かの二者択一的決断が不可欠です。

「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに熱愛しておられる」(ヤコブの手紙4:5-9)
その熱愛に応える努力が、信仰者には課題としてのこされている、という。

人を審くことから、人間間の争いは発しているが、それは、やはり、人が神を退けて、自ら審判者の位置を僣称することであって、神への敵対です。

むしろ、審くより、善を行うべきです。

「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪」(ヤコブの手紙4:12、4:17)
だからであるという。

⑶富者の禍と忍従者の祝福(ヤコブの手紙5章)

富む者、高ぶる者は、人を審く途に走りやすい。

その高慢がエスカレートすると、正義を行わず、義人を罪に定めるという大罪を犯しやすいのです。

反対に、忍従を強いられる貧しい者は、義しい審判者を待ちのぞんで、それに耐え抜くなら、必ず祝福が与えられます(ヤコブの手紙5:7以下)。

天の父には、「変化とか回転の影はない」からである、という(ヤコブの手紙1:17)。


posted by 道川勇雄 at 16:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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